タグ「森見登美彦」が付けられているもの
本日、啓林堂書店・奈良店で森見登美彦のサイン会が開催されていたので、見物に行ってみた。
新刊『宵山万華鏡』を同書店で購入した先着50名に整理券が配布されるとのことであった。僕が現地に着いたのは、サイン会開始2時間前で、すでに整理券は払拭していた。ていうか、発売直後(7/3)から配布されていたようで、今さらノコノコ出かけていってもダメだったわけだ。
本にサインはもらえないわけだが、サイン会場への出入りは自由だったので、生の彼を見物してみることにした。
今朝7時半頃、知り合いから急遽「今夜、祇園祭の見物に行かないか?」と誘われた。今まで一度も祇園祭を見たことがなかったので、行くことにした。
先日読んだ、森見登美彦『宵山万華鏡』に「蟷螂山」という単語が出てくる。幼い姉妹が、「カマキリを見たい」と人ごみをかき分けているうちに、ふたりははぐれて迷子になってしまうというくだりだ。
「カマキリ」だの「蟷螂山」だの、祇園祭の「ぎ」の字も知らない当方だったので、小説を読んだ時には意味不明だったのだが、今日、実際に実物を見て理解した。屋根の上にカマキリの模型を乗せた山車だったのですね。
説明によると、山鉾の中で唯一ギミックが仕掛けられていて、羽や鎌が動くそうだ。巡行(山鉾が実際に練り歩く)は見に行けないので、そのナイス・ギミックを確認できないのは残念だ。
本日読了。
京都の祇園祭の期間中、毎年7月16日に行われる宵山(山鉾巡行の前夜祭)の一日をめぐるオムニバス。6編のストーリーには、それぞれ異なる狂言回しが存在するが、舞台も登場人物もオーバーラップしている。1話ずつ読んでも短編としてまとまっているし、全篇を貫く「幻想世界のふしぎ」も森見登美彦らしい世界観でぐっとひきこまれる。
3本目「宵山劇場」では、僕の大好きな小説『夜は短し歩けよ乙女』の名もなき登場人物の後日談が語られていて、旧作ファンへのサービスも抜かりない。京都市内が舞台というのは森見の定番だが、達磨だの鯉だのといった小道具も『・・・乙女』とオーバーラップし、なかなか微笑ましい。
あとびっくりしたのが、登場人物が京ことばをしゃべっていた。
「京都が舞台なんだから、あたりまえじゃないか」
とおっしゃる方もいるかもしれないが、僕の記憶する限り森見作品の登場人物は、京都人であっても標準語を話していたと思う。たったそれだけのことで、新鮮な作風に見えてしまった。
表紙もキラキラ☆していてきれいなことは報告済み。
当方は祇園祭に一度も行ったことがないのだが、今年は出かけてみたいと思わされたりと、いろんな方面から楽しめる1冊だった。
わけあって、今夜はものすごく緊張している。
この緊張感は、たぶん明日の夕方までずーっと続く。あー、やだやだ。
会社帰り、車を運転しながら、本当にどこかへ逃亡して消えてしまおうかと思ったくらいだ。
もちろん、全てを捨て失踪するだけの勇気もない当方なので、深いため息を付きながら結局家に帰り着いたが。
ポストを覗くと、通販で注文していた森見登美彦の新刊『宵山万華鏡』が届いていた。
「何もこんな最悪な気分な時に届かなくても・・・」
と悪態をつきながら開封した。
当blogにコメントを残してくれた(ご本人だと信じている)こともある小説家・森見登美彦氏が結婚したらしい。
2009-01-06 - この門をくぐる者は一切の高望みを捨てよ
森見登美彦氏は、二○○九年一月六日(生誕三十周年記念祭日)をもって独身貴族の地位を引責辞任し、ひよこ豆のように小さな嫁を迎え、ひよこ豆のように小さな家庭を作ることになった。
なんだかここ数日、日記の中で話の見えない竹林ネタが続くなぁと思っていたのだが、そういうオチか。
おめでとうございます。
当方の大好きな小説、森見登美彦の『夜は短し歩けよ乙女』の文庫本が発売された。
本屋で眺めてみたところ、解説を羽海野チカが描いていた。「書いていた」じゃなくて「描いていた」。
羽海野チカが、同書の見所をイラストで描きあげていた。可愛かった。
特に、緋鯉のぬいぐるみを背負って、二足歩行ロボットのステップの図。
#・・・があったと思う、確か。
家に単行本は持っているのだが、この解説(正しくは「解説にかえて」だっけな?)のためだけに、文庫買ってもいいかもと思っていたり、いなかったり。
森見登美彦お得意の丸太町界隈を舞台に、大学生活の2年間を「実益のあることなど何一つしていない」 "私" がパラレルワールドに迷い込んでしまって難儀する話。
4章からなる作品群のいずれも全く同じ書き出しで始まる。
一部には「同じ話を何度も読ませるなんて詐欺だ。しかも、あちこちコピペの痕が見えまくり。金返せ」と憤る人々もいるかもしれない。
確かに、主人公がパラレルワールド・ネタに巻き込まれ、どれが本当の自分なのか分からなくなってしまうという題材は、ある意味、手垢がつきまくっていると言っても過言ではない。
しかし、僕はパラレルワールド・ネタが嫌いではない。
様式が決まっているからこそ、作り手の個性や構成の妙が際立つわけで、読み手としては作者の力量を楽しむことができるから。
昨夜、プチ売れっ子作家の森見登美彦さんが当blogにコメントを残して下さった。
身に余る光栄なわけで。
最初は、マジメなコメントのやり取りをしていたはずなのに、気がついたらご当地ラーメンの話になっていたり。
登美彦氏は言う。
高校時代に友人たちと食べた彩華ラーメンは懐かしい。
当方は、典型的な「カタチから入る人」である。
森見さんが彩華ラーメンを食べたというなら、僕もそれを食べれば、少しはオモチロイ文章が書けるかもしれないと、淡い期待を薄っぺらい胸板に抱いて、本日早速行ってきた。
他人が「なかったことにしておきたい」と思っていることをほじくり返してはいけないと木公は思っているけれども、だがしかし、森見登美彦という人物のコメントが深い意味を持っていると思うので、今回だけ、何か言わせてくれ!と丸くなって寝ているあるむの静止を振り切る。
一度載せた記事を引っ込めるというのは反則だとは思いますが、冷静になってみると自分がブログでやろうとしていたことではないと反省しましたので、ブログの記事を削除させてもらいました。トラックバックを頂きながら勝手に記事を消してしまって申し訳ありません。拙著、お読み頂きありがとうございます。
木公は以下のように述べている。
「『ブログの記事を削除させてもらいました。』、これはいい。『一度載せた記事を引っ込めるというのは反則だとは思います』、これも事実なのだと思う。『冷静になってみると自分がブログでやろうとしていたことではないと反省しました』、これも書き手の感想だから文句の言える筋合いではない。『トラックバックを頂きながら勝手に記事を消してしまって申し訳ありません』は、自分のブログを読んでくれた人の謝罪であれば、よく分かる。『拙著、お読み頂きありがとうございます』というのは、つねに登美彦氏の作品を繰り返し読んでいる自分にとっては、ご本人に頂いた言葉として、とてもいい」
木公はどきどきする。
「だが、先に書いた自分の記事までも削除する必要はあるだろうか。あの記事は『出生地や性別、人種など、自分の努力ではどうしようもないことを引き合いに出して批判することは、非人道的である』という登美彦氏の深いメッセージに共感したから書いたものである。苫小牧で育った人間は、北海道から出てくるなといわれたら、木公も困る。もちろん北海道をどこよりも愛しているが、今の生活の基盤は奈良なので奈良県民としての矜持も持っているし、京都府精華町に居を移して4年でこの街をとても気に入っている。登美彦氏の作品の舞台となっている丸太町界隈も、自分の第5の故郷のような愛着を持っている。こんな僕が『道民が天下一品で食事をするなど(生意気である。したがって)故郷の満龍でバターコーンラーメンを食べればよいものを』ということを言われたら悲しい。繰り返しになるが、出生や性別など、自分の力では変えられないものをもって人を差別するのは、現代人の倫理に反している。そのメッセージが込められていると信じて疑わないので、先の自分のエントリーは削除しないし、登見彦氏が削除した記事から引用した文章もそのままにしておく。いいよね?いいよね?」
ありがたいことに、5日ほど渡米なるものをさせていただいておりました。
その間、11日に行われたWBC世界フライ級タイトルマッチ 内藤大助 vs 亀田大毅 がいろいろと香ばしいことになっていたようで。
ボクシングそのものよりも、舌戦の泥沼の方が注目を集めているとか、いないとか。
ボクシングの試合では内藤の圧勝だったようですが、舌戦においても、口下手とはいえ内藤の"オトナの対応"が好感をもって受け入れられているようですね。
そんな中、さきほど帰宅して、大好きな作家であるところの森見登美彦のブログ "この門をくぐる者は一切の高望みを捨てよ"でも、プチ Amazon 場外乱闘が発生していることを知る。
だが、『奈良県民が京都を舞台に描くなど故郷の奈良山へ戻ればいいものを』というのはどういうことだ。この一節は『奈良県民が京都を舞台に描くなど(生意気である。したがって)故郷の奈良山へ戻ればいいものを』ということではないか。奈良に生まれた人間は、奈良から出てくるなということか。腹の内でそう思っている人もいるだろうが、しかし、よくもまあ!よくもまあ!
「登美彦氏、抗議する。」
(リンク先削除済み)
2007年10月6日23:00放送のNHK トップランナーに森見登美彦が出演。
山本周五郎賞を受賞・直木賞候補にもなったファンタジー恋愛小説『夜は短し歩けよ乙女』、太宰治、芥川龍之介らの名作を独自の解釈と文法で転化させた作品集『新釈 走れメロス 他四篇』などで、今注目の小説家。
京都での自らの大学生活をモチーフに、現実と幻想を錯綜させる"マジックリアリズム"という手法でヒット作を連発している。
今も京都を創作の場とする森見の"四畳半的京都"への想いと、それを作品に昇華する手腕に迫る。
トップランナーの司会の一人は本上まなみであるが、森見は彼女のファンであることを公言している。
「太陽の塔」の主人公の自転車には "まなみ号" という名前がつけられているくらい。
森見が本上まなみにどういうカラミを見せてくれるか、ちょっと楽しみ。
なお、再放送は11月1日(木)25:05~25:49にNHK総合で。
もうお気づきのことと思うが、ここ数日、森見登美彦の作品を読みまくっている当方がいる。
『太陽の塔』→『新釈 走れメロス 他四篇』→『夜は短し歩けよ乙女』と流れてきた。
たった今、「夜は短し歩けよ乙女」を読み終えた。
近代文学のような格調高く理路整然とした文体で、実在の京都を舞台に縦横無尽に書き連ねられるバカ話!
今まで、「抱腹絶倒」という言葉を言ったことも書いたこともないし、その言葉の意味するニュアンスもよくわからなかった当方であるが、この書でその意味を心の底から理解した。
そんなことは絶対にないだろうが、京都の四条河原町を歩いていて、色白でベビーフェイスで清楚な見ず知らずの女の子に
「いつも alm-ore 読んでます!サインをお願いします!」
と言われたら、色紙に座右の銘として「抱腹絶倒」と書いてしまうほどの勢いである。
『夜は短し歩けよ乙女』のページをめくる度、肩を揺らし、「くくくっ」と笑い声をもらし、目からは笑い涙がとろとろと流れたほどである。
全301ページの物語、1ページ当たり1mlの笑い涙、もしくは笑ったときに飛び出した唾、腹筋の躍動による汗等が流れたとしたら、全部で296mlの水分を放出した計算になる。
296cc といえば、今朝コンビニで買って飲んだアリナミンVのおよそ4本分弱である。
森見登美彦「夜は短し歩けよ乙女」より。
「おともだちパンチ」を御存知であろうか。
たとえば手近な人間のほっぺたへ、やむを得ず鉄拳をお見舞いする必要が生じた時、人は拳を堅く握りしめる。その拳をよく見て頂きたい。親指は拳を外側からくるみ込み、いわば他の四本の指を締める金具のごとき役割を果たしている。その親指こそが我らの鉄拳を鉄拳たらしめ、相手のほっぺたと誇りを完膚なきまでに粉砕する。・・・(中略)
しかしここで、いったんその拳を解いて、親指をほかの四本の指でくるみ込むように握りなおしてみよう。こうすると、男っぽいごつごつとした拳が、一転して自身なさげな、まるで招き猫の手のような愛らしさを湛える。こんな拳ではちゃんちゃら可笑しくて、満腔の憎しみを拳にこめることができようはずもない。かくして暴力の連鎖は未然に防がれ、世界に調和がもたらされ、我々は今少しだけ美しきものを保ちえる。
「親指をひっそりと内に隠して、堅く握ろうにも握られない。そのそっとひそませる親指こそが愛なのです」
彼女はそう語った。

もう一度、もう二度、もう三度、太陽の塔のもとへ立ち帰りたまえ。
バスや電車で万博公園に近づくにつれて、何か言葉に尽くせぬ気配が迫ってくるだろう。「ああ、もうすぐ現れる」と思い、心の底で怖がっている自分に気づきはしまいか。そして視界に太陽の塔が現れた途端、自分がちっとも太陽の塔に慣れることができないことに気づくだろう。
「つねに新鮮だ」
そんな優雅な言葉では足りない。つねに異様で、つねに恐ろしく、つねに偉大で、つねに何かがおかしい。何度も訪れるたびに、慣れるどころか、ますます怖くなる。太陽の塔が視界に入ってくるまで待つことが、たまらなく不安になる。その不安が裏切られることはない。いざ見れば、きっと前回より大きな違和感があなたを襲うからだ。太陽の塔は、見るたびに大きくなるだろう。決して小さくはならないのである。
(森見登美彦 『太陽の塔』 p.116)
太陽の塔を前にした時に我々が感じる畏敬の念を、これほど見事に捕らえた文章は、僕が知る限り他にはない。


